鵜野讃良皇女・持統天皇 高天原廣野姫天皇(第41代) ・父:天智天皇(中大兄皇子) ・母:遠智娘 ・兄弟:大田皇女・建皇子 ・夫:天武天皇(大海人皇子) ・子:草壁皇子 645年:父・中大兄皇子が大化の改新を行った年に誕生 672年:壬申の乱、父・天智天皇より夫・大海人皇子を選び吉野入り 686年:天武天皇崩御。皇后讃良皇女称制。 689年:草壁皇子薨 690年:持統天皇即位 694年:藤原京遷都 697年:珂瑠皇子(文武天皇)に譲位 702年:持統上皇崩御(58歳) 母方の祖父・蘇我倉山田石川麻呂 は、父、中大兄皇子の疑いにより殺され、 母(遠智娘)もそのショックで亡くなる。 弟、建皇子は口が利けなかった上に夭折。 有間皇子は謀反の疑いをかけられ刑死。 讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあった。 姉大田皇女と共に叔父大海人皇子に 嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを 残して亡くなる。 大海人皇子にはたくさんの妻がおり、 大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの 大海人皇子を独占できたわけではなかった。 讃良皇女の支えは子の草壁皇子だけだった。 姉から預かった子、大津皇子は実力も人気もあり、 草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。 天武天皇亡き後、最初に行なったことが大津皇子を謀反 の疑いで逮捕、刑死にさせることだった。 しかしその後、草壁皇子も亡くなり、 讃良皇女が持統天皇として即位することになる。 高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進める。 持統天皇は在位中頻繁に吉野に行幸した。 それは天武天皇とともに過ごした日々を 思い出すためであったのだろうか。 草壁皇子亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の子、珂瑠皇子だった。 持統はその名の通り、皇統にこだわった人だった。 |