** 讃良皇女 **


春過ぎて夏来るらし白布の衣乾したり天の香具山(1-28)

(春がすんで、今夏が来たに違いない。真っ白な布の衣を乾してあるのが見える
天の香具山の辺りで)

天武天皇崩御のとき讃良皇后の歌
燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずや会はなくもあやし(2-160)

(燃える火でさえも燈籠に包み込むことができるというではないか。
それならば死んだ人の魂も留めて置かれないはずはないのに
会われないのはどうも不思議だ)

北山にたなびく雲の青雲の星離り行き月も離りて(2-161)

(北山に雲がたなびいて、そのために、星も散り散りになり、
月も遠く見えなくなってしまった)

明日香の 清御原の宮に 天の下 知ろしめしし
やすみしし 我が大王 高光る 日の皇子
いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は
沖つ藻も 靡かふ波に 潮気のみ 香れる国に
うまごりあやにともしき 高光る 日の御子(2-162)

(飛鳥の浄御原の宮で天下を治めていらっしゃった天子は、どうお思いになったのか。
伊勢の国でいうと大洋の藻が絡み合って寄せてくる浪の上に汐の馨りが立っている
そうした国へ出かけたままお帰りにならない。無性にお会い申したい、立派な天皇さま)


鵜野讃良皇女・持統天皇
高天原廣野姫天皇(第41代)


・父:天智天皇(中大兄皇子)
・母:遠智娘
・兄弟:大田皇女・建皇子
・夫:天武天皇(大海人皇子)
・子:草壁皇子

645年:父・中大兄皇子が大化の改新を行った年に誕生
672年:壬申の乱、父・天智天皇より夫・大海人皇子を選び吉野入り
686年:天武天皇崩御。皇后讃良皇女称制。
689年:草壁皇子薨
690年:持統天皇即位
694年:藤原京遷都
697年:珂瑠皇子(文武天皇)に譲位
702年:持統上皇崩御(58歳)

母方の祖父・蘇我倉山田石川麻呂
は、父、中大兄皇子の疑いにより殺され、
母(遠智娘)もそのショックで亡くなる。
弟、建皇子は口が利けなかった上に夭折。
有間皇子は謀反の疑いをかけられ刑死。
讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあった。
姉大田皇女と共に叔父大海人皇子に
嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを
残して亡くなる。

大海人皇子にはたくさんの妻がおり、
大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの
大海人皇子を独占できたわけではなかった。
讃良皇女の支えは子の草壁皇子だけだった。
姉から預かった子、大津皇子は実力も人気もあり、
草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。
天武天皇亡き後、最初に行なったことが大津皇子を謀反
の疑いで逮捕、刑死にさせることだった。
しかしその後、草壁皇子も亡くなり、
讃良皇女が持統天皇として即位することになる。
高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進める。

持統天皇は在位中頻繁に吉野に行幸した。
それは天武天皇とともに過ごした日々を
思い出すためであったのだろうか。

草壁皇子亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の子、珂瑠皇子だった。
持統はその名の通り、皇統にこだわった人だった。






更新日 2002年12月12日