伊賀皇子・大友皇子 弘文天皇(第39代) ・父:天智天皇(中大兄皇子) ・母:伊賀宅子 ・正妃:十市皇女 ・子:葛野王 天智天皇の第一皇子 遠智娘の子である建皇子が夭折したため天智天皇の子は 大友皇子・川島皇子・志貴皇子となった。 天智は特に大友皇子を可愛がっていたようで 母の身分が低いにも関わらず 後継者とする。 それが壬申の乱の原因となり、しいては 大津・草壁のころにも影響を与えたと考えられる。 すなわち後継者がしっかりしていないから 皇位継承争いが起こるのだという認識と恐れが 生まれたようである。 母の身分のせいで退けられた大友皇子も「悲劇の皇子」である。 壬申の乱は大友皇子の死により終わりを告げたのであった。 25歳であった。 大友皇子の即位を正史は記していないが のちの時代に即位した天皇として 数えられることになった。 『懐風藻』には風格や器量のよさが褒め称えられている。 |