斎宮(さいくう・さいぐう・いつきのみや・いわいのみや)とは、
天皇の代わりに伊勢神宮につかえる皇女のことである。
正確に言うと斎王が停まる所が斎宮で次第に斎王のことも斎宮というようになったようである。
個人的に斎宮という響きのほうが好きなのでここでは斎王のことも斎宮という。
古代から村の中で祭祀をする女性はいたが、斎宮がそれと異なるのは、政治的意味が入ってきたことである。
天武天皇の大伯皇女から後醍醐天皇の御世まで約660年もの間続けられた。
後に定められた法(式)によると以下のようになる。
(大伯皇女の頃も同じだったかどうかは不明)
斎宮となるには、皇女の中からト定(占い)で決められる。
もし皇女がいなければ叔母さんなどなるべく天皇に近い女性から選ばれる。
時代を下るにしたがって血縁的に天皇との距離が出てきたようである。
それは斎宮制度の衰えを示すものでもある。
斎宮に選ばれると初斎院というところに入り、厳しい潔斎の生活を送る。
その後野々宮に移り、足掛け3年くらい潔斎生活を送る。
そして3年目に群行といって伊勢まで大行列を作って赴く。
その前に天皇自ら御櫛を斎宮に挿し、「都の方は思ひたまふな」と言う別れの儀式があり(別れの御櫛という)
送り出される。斎宮が乗るのは葱華蓮(そうかれん)と呼ばれる車だった。
都から伊勢へは5泊6日で、途中は頓宮といわれるところで宿泊する。
それは5ヶ所あったと言われているが、今も、確かなのは垂水頓宮のみである。
伊勢に着くと一行は斎宮に留まる。斎宮と伊勢神宮は約20キロも離れており、
普段は斎宮に留まって潔斎の生活を送る。伊勢神宮で行事のある年に3回だけ伊勢神宮に行列を作って赴いた。
その時以外は、都と変わらない(貝おおいや香合などの)優雅な生活がなされていたようである。
ちなみに伊勢神宮に仕えているのは童女で、斎宮は伊勢斎宮に”いる”ことに意味があったようである。
斎宮が都に還るのは天皇が亡くなられたり、身内に不幸があった場合である。
ちなみに初代斎宮大伯皇女は父・天武天皇の死と弟・大津皇子の刑死、両方の理由で飛鳥に帰ってきた。
なお大伯皇女が初代斎宮と言われるのは木簡などの証拠が出ているからである。
『日本書紀』によると大伯以前にも何人も斎宮は居たが、実在は確認されていない。
また他の理由に史跡斎宮跡の発掘調査によって奈良時代の遺跡が出てきたこともあげられる。
古里遺跡といって史跡全体の西の方向にある。
なお史跡斎宮跡の発掘は博物館によるとまだ全体の14%しか明らかにされておらず
まだまだ分からない事だらけであるという。
古代のロマンは広がるばかりであるが、都から離れ潔斎の日々を送る
皇女たちの心中はいかなるものであったか、察するに余りある。