啼沢女の杜
  Nakisawa me no mori

長岡良子
古代幻想ロマンシリーズ
「月の琴」に収録
1989年5月号「ボニータ」
啼沢女神社にて撮影

啼沢女神社は、正式には畝尾都多本(うねおつたもと)神社と言う。
天香具山の西にひっそりと立っています。
訪れたときには、参拝客も一人もいませんでした。

神社内の石碑には、こう書かれています。

此の神社は古く古事記上巻約千二百五十年前香山の畝尾の木本に坐
す名は泣澤女神日本書記畝丘樹下所居神延喜式神名帳畝尾都多本神社鍬靫万葉集巻二或書の反歌(類聚歌林檜隈女王の歌であり)

石長此売神は寿命を司り泣澤売神は命乞の神なり (平田篤胤玉襷)

春雨秋雨等語源的に澤女は雨に通ず水神なり (本居宣長古事記伝)

万葉集に収められた檜隈女王の歌は「挽歌」に区分されています。

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万葉集巻第二 挽歌

或る書の反歌一首

                                              おおきみ
    202
 泣沢の神社に神酒すゑ祷祈れども わが大王は高日知らしむ
       なきさわ  もり    みわ      いの                                       

右一首、類聚歌林に曰はく、檜隈女王の、泣沢神社を
怨むる歌と言へり。日本紀を案ふるに云はく、(持統天皇)十年
丙申秋七月辛丑朔庚戌、後皇子尊
のちのみこのみこと薨りましぬと言へり。

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「泣沢の神社に御神酒を供えて祈ったけれども、
我が高市皇子は天上にお上りになってしまいました…」

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この歌は高市皇子の死を悼み、柿本人麻呂が作った一連の歌の後に続いています。
桜井満氏の訳注によると、
「系譜・閲歴:不明。高市皇子の娘か。
天平七年(七三五)閏十一月十日の相模国封戸租交易帳に
従四位下
檜前女王食封のことがある。」
とあります。

檜隈女王について調べてみましたが、他にはあまり詳しい資料は見つかりませんでした。

明日香の檜前というところに、於美阿志(おみあし)神社があり、
この神社は百済系渡来人の阿智使主の居住地跡で、檜隈寺がここにあったそうです。

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啼沢女神は伊邪那岐命が伊邪那美命を失った哀しみの涙から成った神、なのだと言う。

古事記 上つ巻

伊邪那岐命と伊邪那美命

4 火神被殺

かれ                  の                  うつく     あ  なにも              
故ここに伊邪那岐命詔りたまひしく、「愛しき我が汝妹の命を、子の一
   け   か                   の                       みまくらへ    はらば    
つ木に易へつるかも。」と謂りたまひて、すなはち御枕方に匍匐ひ、御
     はらば   な                             かぐやま うねお   こ   もと
方に匍匐ひ哭きし時、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本にま

して、泣澤女神と名づく。

 

『香山の畝尾の木の本』…「香山」:大和の天の香具山。「畝尾」も「木の本」も共に地名。

 

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参考文献 // 対訳古典シリーズ「万葉集(上)」桜井満訳注 旺文社
 岩波文庫「古事記」倉野健司校注 岩波書店      

素材提供:「風の王国」
http://www.moon.sphere.ne.jp/oukoku/

2002.07.07