明日香 その二

山田寺址
 



(写真をクリックすると大きい写真が表示されます。
別ウインドウで表示されます。)
 



蘇我倉山田石川麻呂が建立し、また、彼とともに運命をともにした山田寺。

641(舒明13)年、石川麻呂が建立を計画し、堂・塔を建設した。
645年、葛城皇子(中大兄皇子)や中臣鎌足によって蘇我本宗家が滅ぼされた(乙巳の変)。
その後、皇子や鎌足とともに、石川麻呂は右大臣として
大化の改新を推し進めたものと思われる。

しかし、649(大化5)年、石川麻呂の異母弟日向の密告により、謀反の疑いをかけられた。
石川麻呂はこの山田寺で失意のうちに妻子もろとも自害して果てた。
その後、石川麻呂の無罪が判明したと言う。

676(天武7)年、丈六仏を鋳造し、685(天武14)年に開眼供養が行われた。
興福寺で発見された仏頭はこの山田寺のものであるという。
仏頭の頭部は雷に影響で融けているのだと言う。
この仏頭は、興福寺の僧兵により奪われ、興福寺に持ち去られたと伝えられている。

 

東面回廊

 山田寺では、塔と金堂のある中心区画の四方を回廊が囲んでいました。東面回廊の発掘調査(1982年)では、建物全体が屋根瓦もろとも西向きに倒れた状態で見つかりました。蓮弁を彫刻した礎石や基壇の縁石がほぼ完全に残っており、東面回廊は南北23間86.9m、基壇幅6.4mの規模であったことがわかりました。
また、柱や連子窓など多くの建築部材や表面に白土を塗った壁土が残っており、古代の建築技術を知る貴重な資料となりました。

飛鳥資料館では特に保存状態がよく残っていた部材を、保存処理を施した上で、元の形に組み上げて復元してある、とのことです。

 

 

現在の山田寺

本堂は比較的新しいもののようでした。
当時の面影を残すものは今では何一つ残っていませんでした。
敷地内に立つ大木(楠?)の下には、石塔(供養塔?)があるだけで、訪れる人もあまりないような感じでした。
もっと大きなものを想像していたのですが、本堂にも境内にも誰一人いませんでした。
本堂の裏手には野原が広がっています。
この野原に伽藍の土壇のみ復元されています。
山田寺は、その後田んぼとして利用されていたそうで、礎石もあまり残っていない、とういうことです。田畑の中に広がる伽藍跡。 それを見ただけでも、大きさは想像できますが、今はもう見る影もなく、何も残っていません。


山田寺伽藍復元予想図

私が訪れたときには春の野花が静かに咲いていました。誰もいない野原に私一人で、たたずんでいました。1300年前に起きたことなど、野花や野鳥には何の何の関係もなく…、長い時の間に忘れ去られた空間のような気がしました。

自然と遺物が調和した「飛鳥」だけの空間が、このあたりには今でも数多く残っています。

     
↑山田寺伽藍址の野原です。↑