此処新庄町に生まれ育ち、あまり気にもとめてなかったけれど
最近とみに興味の持つのが町内の歴史遺産です。
生まれが大字柿本って こともあり柿本神社(人麻呂神社)は 興味がありましたが
それ以外にほとんど興味の無かったところです。
ただ 近くにある 此処からも見えるこんもりした南西の森(古墳)飯豊天皇陵。
名前だけは 小さい頃から見知っていましたが、天皇って存在そのものに興味も関心も無かったので
そのままになっていました。
一つ気になっていたのが、親父達がよく諳んじる歴代天皇の中に出てこないてのが疑問ではありました。
インターネットが発達して、簡単に調べることができるようになって
調べて見ると かなり 特殊な天皇(女帝)であったみたいです。
飯豊天皇は履中天皇の皇女とも皇孫ともいわれ、母も黒媛ともはえ媛ともいわれている。
清寧天皇崩御ののち、弘計王(顕宗)と億計王(仁賢)とが皇位を譲り合って空位となったため、一時女王として(葛城の)忍海角刺宮で 政治を行ったと伝えられている。
御陵は、6世紀前半の築造といわれています。
すぐ近くには飯豊青皇女を祭神とする角刺神社もあり、隠れた遺跡でもあります。
御陵は全長90mの前方後円墳で、後円部径50m、前方部幅70mの規模をもち、幅10〜15mの周濠をめぐらしている。
周濠内から円筒・形象埴輪、有孔木製品が出土している。
< 新庄駅から南を見るとこんもりした木立が東西に見えます。
その西側・遠方になる方が飯豊天皇陵。 中に入ることはできません。
ただ外側に宮内庁管轄であることと 飯豊天皇の簡単な説明がアルだけです。
近鉄新庄駅と忍海駅の中ほどにあり、新庄駅より南西へ徒歩約10分>
古代日本の女帝史を
1、巫女王の段階(卑弥呼・壹与・神功・飯豊)
2、巫女王から女帝の段階(推古・皇極/斉明・持統)
3、女帝の段階(元明・元正・孝謙・称徳)の三段階に分ける見方があります。
第2段階の女帝たちはいずれも先帝の皇后としての経歴を持つ人たちで、第3段階では皇女であることを必須条件にしている、といった傾向の分析です。
そして神功皇后の子、第15代応神天皇以降の歴代天皇が歴史的にも信憑性が高いとされています。
ところが、それら歴代の中にこの飯豊天皇の号はありません。奈良県北葛城郡新庄町見南花内には『飯豊天皇陵』が存在しているにもかかわらず、です。
飯豊青皇女(イイトヨアオノヒメギミ)は、第23代顕宗(ケンソウ)、第24代仁賢(ニンケン)天皇の叔母といわれています(姉という説も)。兄弟で即位順を譲り合ううちに、第22代清寧天皇が崩御、その時のことを古事記にはこう書かれています。
是(ここ)に日継(ひつぎ)知らず王(みこ)を問うに、市辺忍歯別(イチベノオシハワケ)王の妹、忍海郎女(オシヌミノイラツメ)亦の名は飯豊(イイトヨ)王、葛城(かずらぎ)の忍海の高木の角刺(つのさし)宮に坐(ま)しましき
仁賢・顕宗兄弟による皇嗣の決定をみるまでの間、一時的に飯豊青皇女が一時的に国政をとっていたと思われます。そして、その宮があったと言われる角刺宮跡の前方後円墳を「飯豊天皇陵」と宮内庁も認定しているようです。
日本書紀(清寧3年の条)には、飯豊青皇女についてこう書かれています。
秋七月(ふみづき)に飯豊青皇女(イイトヨアオノヒメミコ)、角刺宮にして、与夫初交(まぐわい)したまう。人に謂(かた)りて曰(のたま)わく、一(ひと)はし女の道を知りぬ。又安(またいずく)にぞ異(け)なるべけん。終(つい)に男に交(あ)わんことを願(ほり)せじ・・・。
飯豊青皇女は生涯で1度だけ男性との経験をし、あとは結婚もせず子どもを作ることもなかったようです。そういう意味では先に書いた女帝の第1段階の人たちと同様に、多分に巫女的な要素を持ち、群臣の信望を集めていたと想像できます。中継ぎに臨機に即位したこの女帝は皇統譜に載ることもなく、表舞台には名を出しませんでした。
参考資料・web
古代日本の二人の王
http://www2.ocn.ne.jp/~fantast/jh3.htm
日本史の中の女性
http://www.ffortune.net/sex/social/wj/index.htm